「SaaSを導入すれば1,200万円、自分たちで作れば10万円」。ドラッグストア大手のスギ薬局が、システム選定の過程で実際にAI開発を選んだ事例が話題になっていました。同社は年末調整の問い合わせに答えるAIボットを、従業員1人が2日で組み上げ、そこから数日で本番運用に乗せています。
本記事では、この「AI内製化」がなぜこれほど低コスト・短期間で実現できたのかを、コスト構造・技術選定・組織体制という3つの切り口から整理します。SaaSを導入する側にも、提供する側にも関わりの深いテーマであり、SaaS企業で働く方にとっては、内製化の広がりが自社のビジネスにどう影響するかを考えるヒントになるはずです。この事例は、ITmediaのTechTargetジャパンと、AWS Japan公式ブログの双方で紹介されています。
何が起きたのか——1,200万円の想定を覆した実例
全国にドラッグストアと調剤薬局を展開するスギ薬局は、近年のM&Aやグループ再編によって従業員数が拡大し、社内業務の負荷が増していました。特に毎年の年末調整では、派遣スタッフを含めて約10人体制で電話による問い合わせに対応していましたが、対象者がおよそ4,000人増える見込みとなり、このままでは対応しきれないことが明らかになっていました。
そこで人事部が持ちかけたのが、生成AIを使った「年末調整QAボット」の構築です。既存のチャットボット型SaaSを導入する場合は1,200万円程度の費用がかかると想定されていましたが、実際にはAWSの生成AIサービスを活用し、従業員1人がわずか2日でシステムの土台を整え、運用費用は約10万円程度に収まりました。稼働期間の約40日間で処理した問い合わせは約2万件。1件あたり10分として人事の工数に換算すると、3,000時間以上の削減にあたるといいます。電話の入電率も1.21%から1.08%まで下がり、対象者が増えたにもかかわらず、これまでと同じ人員体制で乗り切ることができました。想定していたコストと実際にかかったコストのあいだには、大きな差がありました。
なぜここまで安くできたのか——「使った分だけ払う」という発想
コストを大きく左右したのは、料金の仕組みそのものでした。一般的なSaaS型のチャットボットは、利用する従業員の数に応じて費用が決まる「ユーザー単位の課金」が主流です。しかし年末調整QAボットの利用対象は4万人を超える一方、一人ひとりが実際にボットを使うのは年末調整の時期に限られます。つまり、ユーザー数に応じた課金モデルとは相性が悪い使われ方だったのです。
そこでスギ薬局が選んだのが、実際に処理したデータの量に応じて料金が発生する「従量課金」の仕組みでした。土台にはAWSが公開しているサンプルのチャット用アプリケーションを使い、社内のFAQリストをそのまま質問応答の元データとして連携させています。世間で評判の高い既存ツールも評価したそうですが、社内の既存データソースに対応していないことがわかり、別の手段を探すことになりました。最終的な決め手になったのは、人事部が自分たちでFAQファイルを追加したりボットを編集したりできること。つまり、作った後の運用まで自部門で回せる構成だった点です。年末調整のシーズンが終わればシステムの利用を止められるため、使わない期間はコストが発生しない点も、この仕組みの特徴です。AWS公式ブログでは、Amazon Bedrockのトークン単位の課金体系が、こうした限定的な利用パターンに合っていたと説明されています。
スピード感の正体——「1カ月後の年末調整」に間に合わせた方法
人事部からの要請には、明確な期限がありました。年末調整の開始に間に合わせるため、約1カ月後までにRAG(社内データを参照して回答する仕組み)のチャットボットを用意する必要があったのです。
「1人が2日で構築」という速さの背景には、AIによるコーディング支援ツールの活用があります。担当者はまず土台となるアプリケーションを整え、そこに社内のFAQデータを流し込む形でシステムの骨格を作り上げました。具体的には、AWSが提供するAIコーディングアシスタント「Kiro」を使い、スギ薬局の運用要件に合わせたカスタマイズを行ったとされています。その後、人事部と連携しながら細かな調整を重ね、数日で本番環境での運用を実現しています。
この事例が示しているのは、単に「安く作れた」ということだけではありません。AIコーディング支援を使いこなせる人材が社内にいれば、必要な期間に合わせてシステムを立ち上げ、シーズンが終われば止める、という柔軟な運用ができるようになったという変化です。年末調整という期間限定の業務にぴったり合わせて構築・停止できたのも、内製ならではの利点です。
一度きりで終わらせない——次の展開と、それを支える体制
年末調整QAボットの成功は社内で評価され、次の取り組みへとつながりました。それが、調剤薬局向けの「在庫確認エージェント」です。グループ統合の直後は会社間で在庫管理システムが統合されておらず、薬剤師が近隣店舗に電話をかけて在庫を確認する手間が発生していました。相手の業務状況を気にして電話をかけづらいという心理的なハードルもあり、欠品時には患者に負担がかかる懸念もあったといいます。
この課題には、自然な言葉での質問をデータベースへの問い合わせに自動で変換する「Text2SQL」という技術を採用し、データウェアハウスの「Amazon Redshift」に集約された店舗や医薬品のデータを、AIエージェントを介して直接検索できる仕組みを構築しました。この在庫確認エージェントも約1カ月で構築され、200店舗に公開。2026年4月初旬から本番展開が始まっています。今後は調剤薬局の全店舗への展開も計画されているそうです。
こうした一連の展開を支えているのが、DX・AI推進本部のもとに置かれた3つの役割——現場の課題を集約しリリースまでを主導するプロジェクトチーム、最適な解決策の方向性を提案する技術アドバイザー組織、その方針に沿って実装と運用を担う推進部門——が連携する体制です。小さな成功体験を積み重ね、社内で共有していくサイクルが、次のAI活用案件を呼び込んでいます。
転職市場への示唆——「内製化を回せる人材」の価値

この事例が転職市場に投げかける論点は、大きく2つあります。ひとつは、SaaSを提供する側の企業にとっての意味です。顧客企業が「自分たちで作れるなら作る」という選択肢を現実的に持ち始めた今、価格や機能の比較だけで選ばれる立場から抜け出し、自社データとの連携やカスタマイズ性、内製では再現しにくい専門性をどう打ち出すかが、これまで以上に問われるようになっています。プロダクトマネジャーやカスタマーサクセスの職種でも、この視点を語れるかどうかが評価の分かれ目になりそうです。
もうひとつは、事業会社側で内製化をリードできる人材の市場価値です。AIコーディング支援ツールを使いこなし、クラウドの料金体系まで理解した上で「何を内製し、何をSaaSに任せるか」を判断できる人は、まだ多くありません。特定の技術に詳しいだけでなく、現場の業務課題を理解し、コストと効果を経営層に説明できる人材は、事業会社・SaaS企業の両方から求められる存在になっていくはずです。転職活動で自分の経験を語るときも、「何を作ったか」だけでなく「何を作らない判断をしたか」まで説明できると、評価される幅が広がります。
まとめ
今回取り上げたスギ薬局の事例は、SaaS導入だけが唯一の正解とは限らないことを示す一つの実例です。従量課金という料金の選び方、AIコーディング支援によるスピード感、そして小さな成功を組織で広げる仕組み。この3つが揃ったことで、スギ薬局は内製化という選択肢を現実的なものにしました。転職やキャリアを考える上でも、「内製かSaaSか」を判断できる視点を持つことが、これからの市場価値に関わってきそうです。